2016年御翼3月号その1

宮沢賢治とクリスチャン

 

 宮沢賢治[1896-1933]の「雨ニモマケズ」のモデルと言われる齊藤宗次郎[1877-1968]は、内村鑑三の弟子で、キリスト者であった。岩手県、花巻の東光寺の息子で、盛岡の師範学校に学び、花巻で小学校の教員をしていた。そのころ内村鑑三の著書と出会い、キリスト教に目覚め、宣教師から受洗したのだ。ところが、学校で聖書について語り、日露戦争の前には非戦論を唱えたことで非難され、辞任に追い込まれる。長女・愛子は、天皇陛下の誕生日、国粋主義思想が高まる中で友達から腹を蹴られ、腹膜炎のため九歳で天に召された。妻も亡くし、石を投げられ、幼い次女、多祈子(たきこ)と二人で暮らすという不幸な時期もあった。その後再婚し、花巻で新聞・書籍文具取次店を開く。毎朝早く、店員と新聞配達に走り、帰りには病人を見舞い、励まし、慰めた。雪が積もると小学校への通路を雪かきして道をつけ、小さい子どもは抱えて校門まで走る。そのうち町の人は、だんだん宗次郎を尊敬するようになり、花巻を去るときは、駅があふれるほど人が見送りに来たという。その五年後、この宗次郎をモデルに宮沢賢治は「雨ニモ負ケズ」を作った。

雨にも負けず 風にも負けず  
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち 慾はなく  
決して怒らず いつも静かに笑っている…
あらゆることを 自分を勘定に入れずに… 
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい…
みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず
そういうものに わたしはなりたい

 以下は、1913年、斎藤宗次郎が「一労働青年活動の姿」として自分のことを日記に綴ったものである。 

夏シャツ、夏ズボンをまとい、泥棒の道路を東西南北に疾駆して、新聞を配達する青年がある。キリストのために働いているものと知っている。しばしばキリストを思うでは、顔に莞(かん)爾(じ)〔([)笑み〕の漣波(さざなみ)をたたえる。手にも足にも英気はみなぎっている。路上の人々を見て、それぞれに教訓を学ぶ。かつ彼らを尊敬する。愛撫する。同情する。そして購読者に対して、一種和親をもってするの心をもって接する。新たに配達を乞う者あれば、主の御導きを感謝する。事情のために購読中止を乞う者あれば、また神意によるものとして快諾する。
南街を走り尽くして残壕(ざんごう)の峠小径(こみち)を登るや、足をとめて神に祈?を捧げる。晴れた秋日和などには、左右の枯葉の蔭(かげ)に、細き虫の音は彼に慰安の音ずれを通じる。かくの如(ごと)き労働は死に至るまで連続するも、倦(う)むことを知らぬであろう。一歩、一歩は、それだけ天国に近付く確信と希望となって、はじめで真の勇気と歓喜とはあるのである。(山本泰次郎『内村鑑三とひとりの弟子』321頁)

 賢治が盛岡中学校五年の時に書かれた日記なので、賢治が見ることはなかったが、同じようなことを斎藤が賢治にしゃべったかもしれない。また山本泰次郎によると、斎藤は「常に菓子や小銭をポケットに用意して、行く行く子供たちに与え、また乞食や貧困者に恵み、病床にある者を訪れて、慰めることに努めた」という(同)。そうした斎藤自身の生き方ばかりでなく、一九〇九年の長女の愛子、一二年の妻スエといった相次ぐ死を通して、キリスト教への偏見も、次第に尊敬へと変わっていった。町の人たちはやがて「斎藤先生」と敬意をもって挨拶するようになり、子どもも「ヤソ、はげ頭、ハリツケ」などと嚇(はや)し立てていたのが、後には「名物買うなら花巻おこし、新聞とるなら斎藤先生」と歌うようになったという。
迫害されても、報復をせず、ひたすら主のために善い業を続けた。すると神のご栄光、真理、勝利が現われるのだ。
 齊藤に残された次女・多祈子は、東京の女子学院に入学、教会ではオルガニストを務めていた。やがて、明治学院大学で経済学を教える、教会に通う青年と結婚、五人の娘に恵まれる。五女・佳與子は、戦後、東京大学に合格、同志社女子大学で教える夫と結婚、長男は筑波大学を出て、病院勤務、次男は東大を出て、弁護士となっている。佳與子も、非常勤で同志社大学、京都大学などでアメリカ文化論などを教えた。

雜賀信行『宮沢賢治とクリスチャン 花巻篇』(雜賀編集工房)
御翼2013年 斎藤宗次郎 

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